「家庭のような病院を」を読んで

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先日、在宅水戸カンファレンスに参加した時に、佐藤伸彦先生の「家庭のような病院を」を借りることができました。

 

「『さようであるならば』

『さよう・である・ならば』

『さよう・なら』

『さようなら』

今の状況を、さようである、といったん引き受ける。

それがたとえ納得のいかないものであっても、一度は引き受ける。

そして、『そうならば』と次に向かって顔をあげる、辛いことかもしれないが、そうして前に一歩踏み出す…」(本文より引用)

 

人の死は、その人にとっての死だけではない。

看護学校で終末期の看護という授業を受けました。そこでは、緩和ケア、WHOの除痛ラダー、キュープラ・ロスの死の受容についてなどの話があり、「尊厳」「受容」などの話を聞きながら、「ごもっとも」という感想でした。そしてグリーフケアについては、家族に対してのケアという視点ということで話がありました。感情を表出し、悲しみにどっぷりと浸かって、そして事実を受け止めることで悲しみが軽減していくと学びました。

しかし、なんだか終末期の方へのアプローチ、家族へのアプローチを分けて考えることに少し違和感があったんです。もちろん、未告知などにより、分けることのほうがよいこともあるし、学術的に分けて考えるのも理解できるので批判をしているわけではないのですが。学校の授業で、本質的な部分まで切り込むような時間がないことも分かっているつもりです。しかし、この授業に違和感を覚えた人がほとんどいないということも、私はびっくりしています。

 

理想論かもしれませんが、本人、家族、関係者が一緒にその人の最期について語るという場面があってもいいのじゃないかなと思います。日本人は死についてタブー視する文化があり、極端に嫌いますが、人間は100%死ぬわけだから、もっとオープンにしてもいいと思うし、そういう話もよく聞くようになりました。高齢者介護であれば、多くが「死」という部分で関わりが終わります。なのに、会社で葬儀には参列しない方針である、終末期にはかかわりません、と堂々と宣言している事業所が意外と多いことに戸惑ってしまいます。そこで関係が切れたら、その後どうなるのかって気になると思うんですが。。。

 

「死はけっして『点』としての事実ではなく、人と人との関係性の中でしか語られない。人と人との『関係性』の中に時間をかけて織り込まれていくものである。死は死に行く一人の人間が独占しているものではなく、死にいく人を取り巻く多くの関係性の中で共有されているものである。」(本文引用)

 

死に対する視点、授業で感じた違和感の答えがこの文にあります。関係性という中で死を見つめると、死にいく人に関わる人すべてで、その人のことを全人的に理解しようと努め、共通言語で語れる場があると、素晴らしい。その最適な考えがナラティブアプローチなんだと改めて実感した。

「専門性を捨てる専門性」ということを私は、「肩書き」を捨てて、一人の人間としてかかわると捉えています。これに賛同すると、専門職として、適度に利用者とは距離感を持つことが…という人もいるでしょうが、その人が「死」というものを具体的に意識し始めた時、専門職の提言は、正に無用の長物でしょう。本当にその人が何を望むのか、一人一人違うわけで、しっかり人間として向き合わなくてはならないと思います。

 

人間は一人では生きていけません。それは人間が社会を形成し、社会は一人では形成できないからです。社会学者ジンメルは「社会は3人組織(トライアド)をもって、成り立つ」と定義しています。社会の中で死に行くことは、たとえ孤独死であっても、死んだ人だけでの問題ではないわけであり、たくさんの関係性の中で「死」を考えることがより自然ではないかとも感じました。

「死」をただの現象としてとらえるのではなく、じっくりと向き合うということを机上の空論にしないために必要なことは、支援者としての覚悟にあると私は思います。この本を読んで、自分の「覚悟」というものをしっかりと自覚し、達成感のある「さようなら」を言える人間になりたいと考えました。

最後に、素晴らしい本との出会いについて、いばらき診療所みとの丸山先生に感謝します。

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